昭和四十五年九月十二日
x 御理解第五十七節 「金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる、神を杖につけば樂じゃ」
合楽に御神縁を頂いておられる、御信者の皆さんが、本当にひとつ、樂じゃとゆう、楽な日々を過ごして頂く、おかげを頂いてもらわんならん、そうゆうおかげの頂いてゆけれる内容を、合楽自体は持っておる。
ですから、そこを信じられる私は、信心を頂かなければならんと思う、しかもそれは、私共が樂とゆうだけではなくて、言うならば私共が、おかげを頂くとゆうだけではなくて、神様も喜んで下さる氏子も喜べれる、いわゆる合楽である。
そうゆう私は、樂を目指しての信心、そうゆうね、お互いが樂を願わない者はないと思います、最高の極楽じゃろうと、こう思う訳です、ですから、楽な思いとでも申しましょうか、日々を不安、焦燥、イライラ、モヤモヤ、本当に朝から腹が立ってたまらん、といったようなね、そうゆうような心の状態で過ごすとゆう事は、こんなに不幸せな事はないのですよね。
合楽に御神縁を頂いて、この方は 合楽の信心が分かれば分かる程です、こゝのところのおかげ、いわゆる神を杖につけば樂じゃと言う、言うなら合楽一本でいけば、合楽を杖につけば樂じゃとゆうおかげを、頂かなきゃいけん。
ところが、樂でないとするとね、もう合楽でなからにゃならん、金光様でなからにゃならんごと、言いよるけれどもです、実は、合楽を杖についていないと、ゆう事になるのですよ、神を杖についていない事になるのです、まあだ金や木やらの杖をついておる事になります、だから曲がったり折れたりして、樂になれないとゆう結果が、生れてくる訳です。
昨日の御理解の中にも、この樂とゆう事が出ていましたねえ、樂とゆう字から、真ん中の白とゆう字を、抜いてしまうとゆうようなお知らせを頂いた、だから、この樂とゆう字から白を抜いてしまったら、樂とゆう字になりませんよね、だから昨日は、その白とゆう事をどうゆうような事かと、色々に頂いたのです。
言うなら白紙になると、いわゆる何もないとゆう事、だから樂になる為にはどうしても、この白の状態にならなきゃいけない、色がついとったらいけないとゆう事。
ですから、勿論この白の状態とゆうのは、神を杖につけば樂じゃとゆう事はね、神に縋る、頼むとゆう事です、又は、その杖一本に託するとゆう事です、任せるとゆう事です、それを任せきらんでおる、言わば、任せるところに生れてくる心がね、白なんです、何もない、それも絶対のものに任せる時に生れるのが、白なんです、安心なんです。
言うなら、絶対の神様にお任せするのですから、合楽にお任せするとゆう事は、親先生にお任せするとゆう事でしょう、ですから親先生が信じれたらね、樂なんです、絶対の親先生にお任せして、親先生があゝ言うて頂くから、もう全てをお任せするとゆう心、それが白なんです、任せる、だから樂になるのです。
なる程沢山な金があればね、もう本当に金を杖についても良いでしょう、金を頼るとゆう事でもいゝでしょう、けれどもね、その金も杖につくとゆう事は、決して、絶対なものではないとゆう事ですよ、使えば無くなる、木や竹は折れる、金の杖をつけば曲がる、やはり竹や木とゆうのは私は、自分の心とゆう事だと思います、木は心。 それは気の強い人がありますよ、先日、交通事故に合われたと言うので、お願いに見えた方なんかは、もう、一晩自動車が堤防から落ちてですねえ、もう本当に、死んどらんならん筈の中にですね、おかげで助かっておられた訳ですが、朝方までかゝって、堤防の上にはい上がって来なさった、随分気の強い人だったとこう思う言わば、そうゆう気の強い人、気の弱い人だったら、もうそのまゝしまえとったでしょう、けれども気が強いから、一晩がかりでですねえ、堤防の上に上がってきたところを、タクシ-が通りかゝってタクシ-が病院に連れて行ったのと、もう意識がそのまゝ無くなったのが一緒だった。
だから、どんなに気が強い人でもです、気だけではいけない事が分かるでしょうが、もう病院に来た、やれやれと思うたらそれっきり、それからお願いに見えまして、もうそれこそ、不思議なおかげを受けておられますけれどもね、
だから気が強いと、なる程、気や竹は折れる事が分かります、あの人は馬鹿のように素直な人だと、竹のお知らせは素直と仰るからそんなら素直な人と言うたって同じ事です。
信心を抜きにして、素直であるとゆうのは、素直であれば樂かと言うと、そうではない、いわゆるね、こゝにはもう言うならば、頼りになるものは、なあにも無いんだとゆう事を教えてある、実際は…… 金も物も、人間も、それは自分の半身である家内であっても、頼りにはならんとですよ。
もう、自分のこの息子に託しておると言うても、その息子だって実を言うたら頼りにならんとですよ、いやそれよりもね、自分自身の力だけはと思うておる、自分自身ですらが、実は頼りにならんとですよ。
私はそこのところがですね、そうゆうように、段々分かっていけばです、そんなら何を縋ってゆけば良いのか、どうあったら人間は樂になれるのか、信心より他に無い、神様に一切を委ね、託する事の出来れる信心を、本当にまともから頂く以外には無い、と言う事になるのです。そこにね、神を杖につけば樂じゃとゆう事。
樂になる色々な方法があります。
昨日も、八幡の尾倉教会の若先生とゆう方が、出てみえられましたそれで、こゝで私が頂いておる、ぎりぎりの信心を聞いて頂いて、又、昨日の御理解を頂かれたけれども、仲々難解だとゆうので分からない。
だから、私は改めてそれを又、説明させて頂き乍ら、はゝあ、一辺頂いた者が分からないところを、このようにして求められるならこのように親切に、説いて上げれるなあと、昨日思いましたねえ、改めて、 合楽の御理解は、頂きつけなければ分からないと、みんなが言われますが、本当に平易な言葉で申しております。
けれども、それが樂の解釈等になって参りますとね、やっぱ、合楽辞典がいるような感じがするのです。
その方に申しました事です、兎に角お互いがですね、信心させて頂いて、人が助かるとゆう事、それこそ、もう、初めて頂きましたと、目を輝かせて、目に涙して、私の話を一生懸命、頂いて下さった、ですからね、私共が、例えば人が助かる事さえ出来ればと、人が助かるとゆう事の為にですね、やはり、私共自身が助かっておらなければいけない、いわゆる、樂になっておらなければならない。 昨日の御理解は、ゆとりとゆう事でしたけれども、ゆとりがなからなければ駄目だ、その、例えば樂にならせて頂くとゆうところからね、それはそんなら、自分が樂になっただけではいかん、自分が助かったとゆうだけではね、いけない。
これは、こゝの今年の焦点であるところの、世のお役に立たして下さいとゆう祈り、願い、そうゆう願いを立ててです、まず私共がおかげを頂き、助かって樂になる、その樂になった心で、ゆとりのある心で、金銭のお繰り合わせも願いなさい、人間関係も願いなさい、例えばあなたで言うならば、信者氏子が助かっていく事を願いなさい。 まずあなた自身が樂にならなきゃいけない、樂になるにはこうゆう道があるのだと、昨日は色々話させて頂いた。
いわゆる、ゆとりが出来る、そこからね、例えば私だけが樂になっただけではいけん、そこにやむにやまれん、世のお役に立ちたいとゆう願いがです、このまゝでは、なる程昨日の御理解のように、その日暮しのおかげを頂いて、もう間違いの無い働きを、神様の働きを感じながら、有難い勿体ないと、生活をしておる事は良いけれど、それでは世のお役に立てない。
そこで神様に、どんな無理でも願いなさい、これではお役に立てません、お役に立ちたいとゆうその一念が、言うならば神様に、これは無理だ強引だと、ゆうような願いでも、願いを立てて、願いを貫きなさい。
まず、あなたが樂になる、そこからお宅の信者が助かっていく、その事を願いなさい、それがまず先決だと、そこのところを色々な例をひいて、具体的にお話させて頂いた。
だから、今日の御理解も皆さんそうです、私共が合楽に御神縁を頂いたら、合楽には、皆さんに樂にさせられる内容を持っておる。本気で合楽の信心を頂こうと、皆さんが腹を決められたらです、本当に、親先生任せになっときゃ樂じゃと言えれる内容が、こゝにはある。 夕べ、夜の御祈念のちょっと前に、日田の綾部さんが、主だった店員さんを三人連れて、お参りがありました。
実は今日は、どうでも親先生に聞いて頂き、御相談申し上げたいと、ある人間関係の問題で、大変、言うなら難儀な問題なのです、そのお届けをさせて頂いて、もう本当にそうら、親先生のひと言を聞かせてもらうと、こげんスッカリしようがと、あんた達もスッカリしたろうもんと、言われたその後にです、あちらの長男も来ておりました、今度又、自動車を二台買わせて頂くのが、三つ候補が上がっておる、それでその事も、もうお伺いしときなさいと、言いなさいますもんで、御長男が、こうゆう自動車がありますが、どれにさせて頂いたら良かろうかと言うて、お伺いがあった。
それで私が、イスズのにしなさいと、私が申しました。
そしたら店員さん達が、大将に言われる、実は先生、これが一番いかん自動車でございます、他の二つに替える訳にはいかんじゃろうかと、言う訳なのです、他の二つならどれでんよかと、
そしたら、綾部さんが横からね、あんた達は折角お伺いしてから親先生がこれがよかと、言いよんなさるとに、それをね、頂かせて頂くと言う気になりゃあ、これがえゝとか悪いとか、損するとか得するとか、とゆう事じゃないよと、お任せをする そこから樂になろうがと。
親先生が、これがえゝぞと仰ったけん、ハイと言う気になったらそこから楽な事になろうがのと、言うてから、言いよんなさる、結局、だからそれにしようとゆう事になりました。
丁度その時、繁雄さんが顔を出されましたから、例えば、繁雄さんの豚の時の話をさせて頂いた、こちらには丸々と大きな豚がおるこちらの方には、がり子のようなのが一匹残っておるだけ、
折角買うならば、その肥えた方の豚を買いたいのが、それは人情である、けれども親先生は、そのがり子のごたるとを買えと仰る、と言う話なのです。
それがもう、親豚に育つ迄、もう随分、もう死にはせんだろうかとゆうところを、何回も通ったけれども、おかげを頂いて、小さい豚ではあったけれども、子供を兎に角よう生む豚に育った、とゆう話なんです。
例えば、そうゆう些細な事、まあ、自動車を買うとか、豚を買うとゆう位な、些細な事からです、例えば任せきる稽古をする、神を杖につく稽古をする、そして、このように樂だとゆう事が分かる。分かるから今度は、愈ですね、もうそれこそ人生の重大事、といったような事に直面した時にです、それがスタッと委ねられる、任せられる、そこにね、本当のおかげの受けられる道が、開けてくるんだとゆう事を話した。
だから、その事で得をするとか、得をしないとゆう事じゃない、その事以外の事のおかげになっていくとゆう事を、話させて頂いて例えば、そんなら一番手近な話が、高芝さんの話ですよと言うて、高芝さんの事を話させて頂いた。
昨日は丁度、四時の御祈念に、一人でお参りして来てありました御祈念が終ってから、仲々今日は、腰を落ち着けたごたる風で、どうゆうような事からだったでしょうか、もう兎に角ね、おかげを受けて有難いとゆう話を、昨日はもう、こまごまとされるんですよ、 先生、私が日田に行って、何と言うても有難いのは、本店の方でこれは合楽にお参りする自動車ですよと言うて、自動車を買うてもろうたつが、何と言うても有難い事でしたよと、
先生、もう考えてみますと、もう本当にあの店を任せられて、あの店が毎月五十万からの支払いをしていかにゃならん、それがもう本当に、それこそ升で計ったようにです、きちっとおかげを頂いておる、五年間払っていくと終わりになる。
しかもそれこそ、私共には勿体ない位な預金がね、段々に出来ていきよる、しかも、兎に角支払いにがつがつですから、兎に角一生懸命ならにゃおられんと言うのである。
第一有難いことは先生、本当に、娘が二人、息子が二人、あの田主丸の時代に、あの家も屋敷もとられてしもうて、もうそれこそ家具類まで、保障の為とられてしもうた。
たったこれだけと思うような事が、ミスで、神様にお伺いもせずにした事が、もう全財産を失うてしもうて、他所の屋根裏のごたる二階に、しばらくおるような状態があった。
段々おかげを頂いて、子供達の手足も伸ばして頂く事が出来、学校へやる事も出来、一人一人配偶者に恵まれ、娘達もおかげを頂いて、それぞれに孫が出来て、あの時分は先生、息子達が、あんまり寄りつきませんでした、来れば、ちったづつお金入れにゃならんよと、ばっかり言うもんだから、もう行きゃお金の事言われるから、もありましょうが、寄りつきもしませんでしたが、最近じゃもう、うつり かわり やって来てくれますと。
そしてね、孫達にでもですね、本当に気持ち良い、言わば小遣いのひとつも親にやれゝるとゆう事が、もう、こんなに有難いと思う事はない、と言うて、その事を話しとりますと、こう言う。
本当に手の平をかやすような事になってきたところを、聞かして頂いて、又私が話すんですよ、もう、こうゆう働きとゆうものが、どこから生れてきたかと言うとです、もうこの人は、私は人間的にどうこうと言う訳じゃないですけれども、いわゆる合楽に任せる、委ねる、親先生任せになるとなる、とゆう事に於いてはもう、本当の第一人者です、合楽では。
もう一事が万事にそうであった、いわゆる今日申しますように、些細な事から任せきる事が、このようにも楽なとゆう、本当にその楽天的な夫婦だなと思われる位に楽な、例えばあゝゆう難儀な中にあっても樂だった。
そして、化粧品の田主丸営業所ですか、として段々おかげを頂いて、売り子さんも段々出来られて、そして、あの家を買い屋敷まで買うて、やれやれ、これからはおかげが頂いてゆけるとゆう時だったんです、綾部さんのところから話があったのは。
だから、どんなに考えても、人間的に言うならば、ようやく、これからは化粧品の方で樂になってゆけれる、とゆう時にですね、まあ、簡単な気持でお伺いに来たのです。
そしたらもう、二の句のつげん位に「それは日田へ行ったがよかろう」とゆう事でした、アッとゆう位でした。
それから夫婦で相談してから、又、改めてお願いに参りましてから、あちらに行く事にならせて頂いたら、日田には日田にあのような御用があって、日田の支部が生れるとか、又は、周囲の人が助かっていくと言うか、そして私達には一番適当な、いわゆる、適材適所と思われるような、御用をこうやって、頂かせてもろうてです、まあ、日々楽なおかげを頂いておるとゆう事なんだ。
言わば私が、その時のお伺いなんかは、もうこれは一身上の大問題だったと思うですね、高芝さんと致しましては………
それをですね、もうそれこそ、ハッと受け賜ってから、もう家も売り、屋敷も売り、商売の方も、こげな風ですから止めますと言うて、日田の方に行かれたのです、もうその辺のあざやかな事は又、本当に驚くくらいですね。
高芝さんの人柄とか、信心は別としても、その辺まで委ね、託せれる程しに、永年の信心を積み上げていっておられたとゆう事は、大したものだと思います、それがそんなら、あのようなおかげに開けていっておるとゆう事です。
なる程、神を杖につけば樂でしょうが、皆さんが御承知の通りですよ。 田主丸の時代は決して樂じゃなかった、けれどもね、あの人達はいつも、楽な風にしちゃったでしょうが、あれは楽天家だからと言や、もうそれ迄ですけれども、親先生があゝ言うて頂くから親先生任せになっとるから、樂だったんです。
金やら物やら、竹やら木を使わずに、いわゆる、只神を杖についておったとゆう事、それが、例えば人生の大きな別れ道とゆう時にです、それをちゅうちょする事なく、神さま任せになれゝるおかげを頂く時です、本当は運命が、そこから開けてきたとゆう感じ、
神を杖につけば樂とゆう事はね、私は、そうゆう事だと思う、私共がこゝで信心の稽古をさせて頂いても、本当に至らん事ばっかり相済まん事ばっかり、いわゆる、ぎりぎりの自分を思わせて頂いたら、本当に、こうゆう事が願われる段じゃない、と思われる程しの自分を、発見致します、お互い。それでもね、願わなければおられないのが私達、だから、そんなら、こうゆう例えば、言うなら、汚い私であるとゆう自覚と言うか、もうとても本当に、お願いども出来る私ではない、と思う乍らもおられない、それではだからいけない、汚い私が願っとったんじゃいかん、
そこで楽なところ迄、一線上まで出なければ、次の願いが出来ない、そこにね、私はお詫びのしるしにとゆうような事が出来る。
目に余るような事がある、例えて言えば親子の問題でも、嫁姑の問題でもそうです、本当に、うちの嫁があゝあってくれるといゝばってん、といったような事もありましょう、うちの姑がまちっと、こげんあってくれゝばとゆう嫁さんも有りましょう。
だから、そうゆう例えばひとつの、難儀なら難儀をです、自分とゆう者が見極められて、自分のような者がとゆう事のですね、お詫びのしるしに、その事が心にかゝらんような、おかげを頂いたら、そこにはもう、白紙と同じ、楽な心が生れてくる。
この事はきついけれども、このきつい事をもって、お詫びのしるしにとゆう時にね、言わば楽な心が生れてくる、だからこんな汚い私が、と言うて願うのでは、いけないですけれどもね、いわゆる楽な気持になれゝる、目に余るような事柄、難儀を感ずる時です、それを見るのはじゅずない、やっぱり切ない、苦しい。
けれどもです、それを私のお粗末、御無礼のお詫びのしるしにと見る時にです、この事は、もう非常に樂になってくる、こちらは、この事によって、詫びが許されるとゆう気がある、それが樂なんです、その楽な思いでです、私共は願っていく、その願いも、世のお役に立ちたいとゆう一心が、一念が、願うとゆう事になる時、きちっとした順序が感じられます。
今日は、神を杖につけば樂じゃと、その楽な心に、ならせて頂くとゆう事も有難いが、その楽な心で、よりおかげの頂けれるように願わなければ、いけないと言うのである、楽な気持で、
それは、世のお役に立ちたい一念の、願いになって来なければいかん、そこには力はなくても、受けものは出来ていなくても、願えれる、言うなら、大義名分と言うか、そうゆうものがハッキリしてくる、私の身欲、私の身樂の為の願いじゃない、とゆう願いをさせて頂く、まず為に、まず私共は、樂になるおかげ、樂じゃとゆう、……… 今日は、樂にならせて頂く為の御理解、
合楽には、合楽を、又、親先生をもちっと研究したら、綾部さんじゃないけれども、右左は、もう親先生に任せときなさいと、任せたらこげん樂になろうがと言う、その楽なんです。
そうゆう内容を、合楽は持っておるとゆう事、しかも、合楽の樂はです、どこ迄も、私が樂になるだけではなくて、世のお役に立たして頂く、願いとゆうものが立てられて、いわゆる神様も樂になって下さる、いわゆる合楽、そうゆう合楽を目指してね、信心の稽古をさせて頂きたいと思いますね。 どうぞ。